家が全壊➓【西日本豪雨災害の記録】
前回まではこちら↓
豪雨によって家を失った祖父母・・・
けれど、失ったばかりではないと言います。
どん底の中で得たものとは
祖父母が涙を浮かべ、話してくれました。
新聞やテレビでも、連日
祖父母の町の名前が報道されていたので
心配して声をかけてくれる
親戚、友人、知人・・・
顔を見に駆けつけてくれた人々。
長い期間、連絡を取り合っていなかった方や
連絡先を人づてに聞いてまで
電話してくださった方。
祖父母の携帯は連日鳴りやまなかったそうです。
そして、水が引いて家に入れるようになってからは(参照:【西日本豪雨災害の記録❽】)
作業を手伝う為に、たくさんの知人が駆けつけてくれたり
軽トラを貸してくれるなど、力になってくれました。
そして印象的だったのが・・・
ボランティアの方々。
家の中に入れるように、道を作ってくれたり
家具を外に運び出してくれたり
大事な物の泥をとってくれたり・・・
大変な暑さと匂いの中
どんなことでも一生懸命
気持ち良く作業してくださったそうです。
また、これまでにもボランティア経験のある方などは、何をどうしたらいいのか分からない祖父母達にとって
とても頼もしかったそうです。
見ず知らずの自分たちのために、
こんなに一生懸命、力になってくれるボランティアの方々に祖父母はもちろん、私の母達もみんな感動していました。
今度は自分たちが、何か出来ることで誰かの役に立ちたい、立たねばならない、そう思ったそうです。
私も、困っている方の為に、何か出来る人になりたい。
作業の状況
ちなみに、当時(7月)は
連日35度を超える猛暑。
町中に溜まった泥も、太陽に照らされた部分は表面が乾燥して風で舞い、陰った部分は、ヘドロ状でひどい状態。
ずっと慣れることの出来ない、異様な匂い。
20分作業をしては日陰で休憩を繰り返したそうです。
ポカリスエットが、一瞬でに空になるほど
驚くほどガブガブガブっと、体に入ったそうです。
(当時スーパーでは売り切れ続出)
「トイレはどうしてたの?」
と聞くと
「トイレ・・・?
そういえば特に誰も行きたくならなかったねぇ。。。」(母)
避難所になっている町民センターで
トイレは借りることはできたそうですが
作業中はすべて汗になっていたのでしょうか、
誰も行かなかったとのこと。
もう、家自体は住むことは不可能なので
今後取り壊す予定です。
なので作業と言っても現状回復ではなく
大きなものを外に運び出し、持ち出せる必要な物を出すというものでした。
皆さんのお陰で片付きました。
被災直後(洋間)↑
1か月後(洋間)↓
埋まっていたアルバムから
綺麗に写真を取り出していただいたもの↓
私は、泥の中から取り出せた花瓶を
祖母からもらいました。
大事にしたいです。
続きます。
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